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まちづくりのベクトルを音楽を楽しむ活動にも受け継ぎながら...

まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu


まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu

まちの木偶(でく)


まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu
1984年尾道青年会議所に入会し、尾道じゅうにん委員会出会いの装置製造本舗、そして尾道の歴史的景観を守る会 と、尾道のまちづくりのベクトルに惹きつけられるように心が動き、約15年の歳月をそれなりに活動してきた。そしてある日、吾輩は自分を尾道というまちに操られた木偶だと自覚した。
それは吾輩が勝手に「尾道町」と呼ぶ、江戸時代に形成されていた尾道町(歴史地区)のド真ん中に、広島市内の業者K社が高層マンションの建設計画を進めていることが発覚し、おまけに行政も市議会も賛成していることを知った、その瞬間だった。突然、胸が押さえつけられたような息苦しさを感じたのだ。
まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu
と同時に、吾輩は「尾道町には高層建築物をつくるべきではない。建設計画がそのまま実行されれば、尾道の将来に禍根を残すことになる。」と考えた。しかし一方では、尾道町の域外、例えば西御所以西には高層建築物を建てやすいよう都市戦略「景観の成長管理(Growing Control)」を行うべきだ。市外県外の企業の投資意欲を削ぐのではなく、高層建築に適した地域にうまく誘導しなければならないと。そのために景観を守る運動に身を投じるのは、吾輩には必然のことだった。
高層マンション建設計画にいち早く反対され、組織された「尾道の歴史的景観を守る会」(以下、守る会)の日暮兵士郎会長に、吾輩は「個人の立場ではあるが、入会させて欲しい」と直訴した。実は、この組織は当初、尾道市内の各種団体の長だけで構成されていたため、吾輩には入会資格がなかったからだ。その願いは受け入れられた。

硬直化した組織


行政だけではないと思うが、トップが進める方針とは異なる意見を唱えれば、その結果は、権力者の取り巻きからは煙たがられる存在となるらしい。吾輩の仕事の上でも、さまざまな障壁が発生したのは事実だが、これは極楽とんぼの吾輩に与えられた勲章だと思い、それも良しと気にせずにいた。
しかし、残念なことは、異なる意見を冷静に分析し内容を吟味することなく、ただただ「誰」が異なる意見を言ったかが重要となるらしい。これでは組織が硬直して、知恵が出てくる筈はない。いわゆるYESマンの忖度現象で、3期4期と長期政権となった権力者の大半が、「裸の王様」になってしまうのだ。こんな風潮を是とするまちに将来はないだろう。
当時としては、全国的にも珍しい都市景観の運動に、尾道市の支援や理解、協力はまったくなく、民間の力だけでマンションの建設用地を3億5千万円で買収し、その地に尾道白樺美術館を建設、1999年4月29日に開館した。
市民運動が根付かない尾道にあって、この景観運動が一応の成果をあげることができたのは、日暮兵士郎会長という人格者の存在が大きかった。2005年「尾道の歴史的景観を守る会」は、尾道白樺美術館を尾道市に寄付し、「守る会」の活動にピリオドが打たれた。

ビサン ゼセッション設立の秘話


その後、吾輩は景観運動を最前線で活動したことで、結果的に公的な役職をはずされた。そして尾道市は、都市景観問題を経験した後も、都市景観に関わる景観条例はおろか指導要綱さえも検討しない無策を貫いた。そのためか、「守る会」が広島のK社から用地を買取り、建設計画を白紙としたはずの高層マンション建設計画だったが、その下請け業者O社(岡山県内)が、こともあろうに再び「尾道町」に高層マンション建設を計画してきた。これに対して「守る会」には、もはや再び立ち上がる余力は残されていなかった。行政も議会もマンションが建設されることが、尾道の経済的活性化になると公言していた。そのマンション建設用地は、備三タクシー所有の空き家となっていた元本社屋のすぐ裏手の近い場所であった。
景観運動に不満をもち、マンション建設を敢行するO社が、備三タクシーに元本社屋を建設現場事務所として使わせてほしいと申し込んできたのだ。それを聞いた吾輩は、胸の内で「とんでもないことだ。何とかしなければ」と考えた。
約30年が経った今でこそお話しするが、吾輩は、備三タクシーの会長であり吾輩の父に、次のような話をした。「元本社屋を使わせてほしい。新たな会社を興し、旅行業と総合企画を業とする会社をつくりたい。」のだと。当時、吾輩は会社経営のノウハウを熟知していなかった。しかし、一歩も引くことはできない。吾輩の父は、未熟な吾輩をどう思っていたかは知らないが、1992年備三タクシー株式会社の子会社として「株式会社ビサン ゼセッション(BISAN SECESSION)」を設立、吾輩は同社の代表取締役に就任した。

隠れ蓑(みの)


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社名にあるドイツ語のSECESSION(ヅェツェッシォーン)というのは、19世紀末にウィーンで展開された芸術運動の名称で、日本では「分離派」と訳されている。不思議なことに、設立後まだ日の浅いある日、知人の紹介で徳島の日和佐町から小林洋子(パラディース代表)が吾輩を訪ねてきた。彼女は、瀬戸内寂聴が徳島県で開講していた寂聴塾2期生で、瀬戸内寂聴に同行してオーストリアの首都ウィーンを訪れたことで、ウィーンの音楽に魅了されてしまったようだ。行動派の彼女は、ウィーン在住の音楽家・杉本長史(オーストリア文化産業促進交流協会理事)の協力を得て、ウィーンの音楽家たちを日本の地方都市に紹介しウィーン音楽を広める仕事を始めていた。
彼女が吾輩に持ち込んできたのは、「尾道でウィーンの音楽家たちのコンサートをやらないか」という話である。音楽を聴くのは好きだが、楽器演奏はおろか音符も読めぬ吾輩、ではあったが躊躇なくやってみましょうと快諾した。
軽率かも知れないが、社名をウィーンゆかりのSECESSIONと名付けたこと、そして最初に飛び込んできた事業の話がウィーン音楽という、これは運命的なことだと受け止めていた。
初めて主催したコンサートは、吾輩の母校である広島県立尾道東高等学校所有のベヒシュタインピアノ(1906年製)を使わせていただき、同校体育館で開催したチャリティーコンサート「ウィ−ン王室弦楽オ−ケストラ」だった。この事業でチケット販売 849枚、入場者数863名、うち招待者98名(49名はブラスバンドの生徒)で、約16万円の赤字となったが、チャリティーと銘打っていたので5万円を学校に寄付することで、総額21万円の赤字で済んだ。
そして翌年、尾道市公会堂で行った「アイヒェンドルフ五重奏団」で、今度は大きな穴を開けてしまった。今考えると、素人が取り扱うには高額な公演料で、無謀なことだったと思っている。
しかし、当時の吾輩は『音楽という切り口で、さらなるまちづくりの人材ネットワーク化をすすめることができそうだ。ド素人の吾輩が、音楽会を企画、運営することでは、誰も文句は言えないはずだ。これが大きな吾輩の隠れ蓑ともなるはず』だと納得していた。以後、吾輩への愛称「銭儲けのできぬ興行師」の奮闘が始まった。
(下の写真、左が「アイヒェンドルフ五重奏団」右が「ウィ−ン王室弦楽オ−ケストラ」のチラシだ。)まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu

クラシック音楽を楽しむ会


パラディース代表小林洋子の提案を受けたものの、コンサートを運営する母体がない。一人でやるよりは、組織をつくるほうが得策だろう、と考えて最低限の構成員3名と勝手に決め込んだ。組織の名前は、いとも簡単な「クラシック音楽を楽しむ会」とした。そんなわけで、この会には会則というものはない。
吾輩が白羽の矢を立てたのは、山北 篤と安保雅文だ。山北は紙問屋のオーナーで、後に尾道市教育委員長を長く務めた。安保は外航のタンカー十数隻を所有する海運会社のオーナーで、お二人とも人望厚く、尾道青年会議所の理事長経験者だ。声を掛けると間髪を入れずOKとなった。お二人はきっと、無謀に突っ走る吾輩が危なっかしく思い、支えてくださったのだろう。彼らは、尾道青年会議所でのまちづくり活動からNPO法人を解散する2019年までの33年余りもの長きにわたり、吾輩のまちづくり活動にお付き合い頂いた。
それにしても、この「クラシック音楽を楽しむ会」が、よもや組織の名前を変えながら、やがて100回を超えるコンサートやイベントを企画し、主催する活動となるとは想像もできなかったことだろう。
「クラシック音楽を楽しむ会」「おのみちホッとコンサート」並びに「特定非営利法人(NPO)おのみちアート・コミュニケーション」のコンサート部会の活動履歴は、また別頁でご報告する予定である。
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暖簾(のれん)に腕押し


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吾輩は常日頃から自分には「お金を儲ける能力に欠けている」との自覚があって、周りの人も吾輩のことを異口同音に欲がない人種だと思っておられるようだ。そういう環境に甘えてか、吾輩は人一倍の欲は十分ありながら、やっぱり自分はお金に縁がないのだと思っている。それが証拠に、石に躓いて転んでも、「それにしても、これは綺麗な石だねぇ」と喜ぶ楽天家で、吾輩は暖簾に腕押し的人種だと自認している。
先日、吾輩が長年歩んできた文化活動の財政状況を記録した昔の書類が、パソコンにあるのを発見した。覗いてみたら笑ってしまった。どうみても吾輩は経済人とは言い難く、組織運営の経済的ボーダーラインの水面下に潜ったかと思えば、ちょっと浮上し息をして、また潜り、ついでにもっと深く潜ってみようかとでも思ったのか、グい〜と潜っては、また海面に辛うじて顔を出す。まちづくりの顛末/MachidzukuriTenmatsu

そんな運営が続くので、周りのものには心配ばかりをかけていたのではあるまいか。
「尾道の歴史的景観を守る会」の日暮兵士郎会長は、丸善製薬(株)という尾道でもトップクラスの優良企業の会長でもあった。ある日、会長から「クラシック音楽を楽しむ会」を支援したいと有難いお話をいただいた。そして日暮彰文社長にも引き続き数年間のご支援をいただいた。そのおかげで「クラシック音楽を楽しむ会」は、数年来の赤字から財政状況は好転し、100万円の黒字となった。2007年には、その資金がNPO法人設立の財源となり、NPO法人「おのみちアート・コミュニケーション」という公的組織で、その後のさまざまな尾道のまちづくり活動に取り組むことができた。
やがて、その活動も10年が過ぎ、尾道の市庁舎新築問題から端を発し、吾輩が信じる尾道のまちづくりのベクトル「歴史を味方にしたまちづくり」から逸脱することを是とする尾道市の現実に別れを告げるべく、2019(令和元)年の夏、NPO法人を解散し、不甲斐なくも吾輩は、尾道でのまちづくり活動をカットアウトした。(2019年5月17日)
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